宮脇彦次郎コレクション
三河吉田藩々士〝宮脇睡仙〟を最後に代々近江の国郡代(代官)であった宮脇家。〝宮脇睡仙〟の長男彦次郎が現在に残した江戸から昭和初期までの画と書のコレクションを公開しています。
三河吉田藩々士〝宮脇睡仙〟を最後に代々近江の国郡代(代官)であった宮脇家。〝宮脇睡仙〟の長男彦次郎が現在に残した江戸から昭和初期までの画と書のコレクションを公開しています。
睡仙、諱は政成、字は民聴、通称を忠右衛門と云い、節斎又は睡仙と号した。
代々三河吉田藩の家臣であり、安水八年睡仙の曾祖父崇廣の時に吉田藩が初めて郡代邸を大津に置いて、崇廣をして近江の北方面を管理させた。
以来祖父政直、父政恒及び睡仙四代累代郡司に任ぜられ、束浅井・西浅井・高島の二十三ケ村を管理していた。
睡仙は父政恒の第二子(長子は夭折)で、光格天皇文化十二年(1815)七月二十一日、阪本町の藩邸で出生した。
父政恒は通称小源太兵衛、字を月如と云い、静斎と号した。
柏木如亭に學び老いても倦まず、多く和漢の典霜を蔵し、博覧験記百家の書を所蔵し、其の居を五松庵と云い、交友頗る多く頼山陽鼎金城等とも交友があった。
睡仙此の間に長じて家學を受け、経史国典に通じて、詩歌を良くし叉絵画にも熟心であった。
嘉永元年、政恒没するに及んで職を襲いだ。
睡仙体躯肥大、顔容温乎能く言を容る、村民皆悦服す。
後参政の列に班して、勤王の志厚く、明治元年三遠駿裁判所判事に任ぜられ、同裁判所の廃止以降は吉田藩少参事となり、明治三年辞任する。
之れより睡仙と号して、松本に隠居し、詩酒閑逸書画骨董を玩び、優遊自適であった。
絵事に心を傾け、山本梅遠の風を慕い、其の門人である上野雪岳(注1)を家に招いて教えを乞うた。
しかし世運は彼に勇退の期を与えず、後薩陲正邦、山岡景命等と共に大門町に滋賀新聞社を起し、また国立銀行条例の出されると、第六十四銀行の設立に斡旋し、推されて取締役支配人となり、米商会所条例の公布と共に近江米商会者の頭取に選ばれ、公明実直に経営に努めた。
明治十丑年十月二十四日病没、百石町乖念寺に葬られた。
享年六十八。嗣洲三家を継ぐ。
奮友小野湖山の碑文がある。
文政2年(1819年)~明治27年(1894年)越中国(富山県)に生まれる。
本名恭。字は克譲。雪岳、北陸道人、北陸岳人、菜成、雪崋山椎と号する。
出自は富山の室町時代から続く土豪上野家とされる。画家を志して京都に上がり山本梅逸より南画の師事を受ける。
烏丸佛光寺南に住し画を業とし山水花鳥を善くした。
現存作が少なく幻の画家とも言われるが非常に精密で気品高い密画で幕末の隠れた名手とされる、晩年は三重県津に隠住。
株式会社 山叶商会相談役
宮脇彦次郎君
東京市麹町百中六番町五拾五番地
夙に日新文明の學問に志し、新知識の吸収に努め、之を取引界に応用して、幾多の改良を施し、斯界の向上進歩を計る、曾ては賭場を以て目したる我取引界をして、今日の進歩発達あらしめたるもの実に宮脇君の誘導啓発に因るもの蓋し少なからず、君は洵に斯界の隠れたる殊功者にして、其志を起すや老齢に至るまで曾て一日も移らず、帝都斯界の雄者扇島浪蔵氏と相携へて山叶商会を起し、其抱負を実現し今や業成りて引退す、而して君の後之に亜ぐの知識に乏し、亦重んずべきかな。
君は萬延元年九月五日、大組市阪本町宮脇正幹氏の長男に生まる、君の家は累代三河の国吉田の城主松平伊豆守の近江領一萬石の郡代として、勢望共に兼ねたる權門なりき、従って其家庭に於ても亦た教育尋常庶民と大に選をにする處ありき、然も維新後社会制度の著しき変革に伴い、大に覚える所あって十五歳で上京して日本橋区通三丁目丸善書店の店童となり、大に商業の見習をなさんとするや、店主深く君の将来に看る所あり、資を給して慶応義塾の福沢先生に托せり、爾来君は同塾に在りて普通學を修むること事一年半偶脚気を患へて帰郷静養し、疾愈えて後再び笈を負ふて神戸に到り、今の神戸商業の前身商業講習所に入りて在學することニ年、其後更に上京して神田の専修學校に入り、法律経済を専攻すること三年業を卒へて帰郷するや、當時六十四銀行破綻と生じて、先代浅見又蔵氏之が整理の衝に當る、君乃ち同氏を補佐して其衝に任じ、所期の目的を達することを得せしめたり、尋で大津に商業会議所創立の事に參輿し、晝策奔走して遂に其設立を見るに至らしめたり。
君夙に我取引界の尚甚だ幼稚にして、仲買人の地位甚が低く、世界の新気運に後ること甚しきを慨嘆すること久、
其後君の上京するや、株式界に其人ありと知られたる福島浪蔵氏に向つて大に其理想抱負を告ぐ、氏大に君の識見に服し、乃も君の提携を慫慂し、其意見を用ゐて有價鐙券を海外市場に紹介するの端緒を開き、逐年福島商会をして良好の成績を擧ぐるに至らしむ、斯くて同店に携ること七年従来福島氏の個人経営なりしを合資組織となし、君亦出資社員の一人となり、奮励努力して遂に牢乎たる基礎を築けり。
先年商傑福島氏逝くや、大正七年四月同社の組織を更めて株式会社山叶商会と命名し、資本金を一百萬圓となす、君は斯くて梢老境に入りしを理由として、此組織替を機として同店を退き、後進の為に進路を開けり、而して今は現住の閑地に静に老齢を養ひ、傍ら同社の相談役として善意の監督者たり、洵にはじめあり終わり有と云ふべし、尚君は海外新世界を脱察すべく或は近く其途に上らんとすと、居常碩学志士の遺墨を愛し、蔵する所も亦頗る多し、其人格功労斯業界の一人者なり。(大正ハ年七月稿)
明治23年(1890)設立の新聞社。宮脇期三の経営で,2月121日『近江新報』を創刊。
第1回衆議院議員選挙に際し,杉浦重剛を推す県内有志者が設立したものという。
同29年,西川太治郎の経営に変わった。当初社屋は坂本町の商工会議所前にあり,のち伊勢屋町へ移ったようだ。
明治政府は経済政策に力を入れ、欧米の先例にならいつつ新たな経済制度を確立するために、さまざまな方策を試みた。
前項の為替会社はその一例であったが為替会社は当時の経済混乱に対応しきれないまま失敗した。
しかし、江州バンク計画あるいは勧業社などの活動にあらわれているように、金融機関設立の動きは全国各地に見られるようになる。
政府は全国の金融機関設立の動きを見ながら、為替会社の経験をふまえ新たな銀行制度を確立することを目ざして、明治五年十一月に国立銀行条例を発布したことは先にも述べた。この条例で定められた国立銀行は、預賃金、為替など普通銀行の機能とともに、銀行紙幣発行の特権が与えられていた。ところがこの条例のもとでは全国で四つの銀行しか股立されなかった。
発行権を持つ紙幣の種類が正貨兌換のものであったため、紙幣を発行すれば、ただちに兌換を求められ失敗に終わると考える者が多かったためであり、また民間の資力が充分に整っていなかった点も、指摘されている。
明治政府は国立銀行の紙幣発行によって、維新の時にみずから発行した不換紙幣の回収と経済の安定を計画していたが、それが水泡に帰したわけであった。
そこで政府は国立銀行条例に改正を加え、不換紙幣であっても、とにかく多額の通貨を供給することで殖産興業資金をつくり出そうとした。
不換紙幣の発行権を与えられる新しい条例は明治九年八月に発布され、以後国立銀行は全国に設立が相次ぐことになる。大津に設立された第六十四国立銀行もその一つであった。
明治十年七月、森弥三郎・北村兵右衛門・宮脇政幹(睡仙の養子)・薮田勘兵衛・本多豊七郎・中村伊助の六名は国立銀行創立の志をたて、資本全一五万円の計画で出願した。
ところが同じ時期、彦根の井伊直憲ほか数名も資本金二〇万円で銀行創立の計画を持っていた。そこで双方相談のうえ合併した形で出願した。結局、資本金を二五万円以下にするよう指令されたうえで十一年三月に許可を与えられ、名前も第六十四国立銀行として同年七月二十日、本店を大津中京町に、支店を彦根に設けて開業した。
開業当時の役員は、頭取森弥三郎、支配人宮脇睡仙、取締役弘世助三郎、取締人伊関寛治・森勝美・本多伊織・北村伊右衛門である。
京津電車に次いで、大津電車軌道株式会社(以下大津電車と略称)が開通する。
明治三十九年頃、由利公正等は大津―馬場間の電車を、宮脇剛三等は石山駅より石山寺(石山寺一丁目)に至る軽便鉄道(狭い軌道で小型車両の鉄道)を、橋本甚吉郎等および藪田信吉等大津市の実業家はいずれも石山―坂本間の電車を発起して、それぞれ許可を競願したが、その後四派は合同して大津電車軌道株式会社を設立。同四十年九月二十一日、滋賀郡石山村から膳所町・大津市・滋賀材を経て坂本村に至る軌道敷設が免許された。
廃藩置県後の宮脇一族のなした事業を語る際に忘れてならないのが宮脇剛三の存在である。
剛三は宮脇彦次郎の妹の養子(入り婿)である.
宮脇家に伝わる話としては、剛三は彦根藩の伊井家から養子に来たということになっている。
先日、このウェブサイトを開設するにあたって彦根城歴史博物館に問い合わせをしたが、記録によれば伊井家から養子に出たと言う者は記録にはないということであった。
しかし過去の宮脇家と伊井家との間を考えると、当然そのような深いつながりがあってもおかしくは無いし、共同で銀行設立をしたことなどから、剛三が伊井家と深い関わりを持っていたと言う事は十分に考えられる。
おそらく表面的に出ていない存在なのだろう。
その点は島津斉彬の隠し子である、不二木佐七と同じような境遇なのかもしれない。
剛三が義父である宮脇睢仙と共同で銀行を設立し、破綻した際にやはり睡仙の長男であった彦次郎がその後処理に奔走したと言うことも不思議といえば不思議である。
彦次郎の妻ヨネは、島津斉彬の隠し子であった不二木佐七の長女である。
このこともやはり歴史の表面には出ていないが、我々在野の歴史研究者から言えば表面に出ていること、文献に残されていることのみが真実であるなどとは夢にも思っていない。
こうしてみると明治維新の動乱期、宮脇家を中心として島津斉彬の烙印であった不二木佐七を通して薩摩閥と剛三を通して伊井家とが姻戚関係を結び、一つのつのネットワークを形成したのである。
このネットワークが琵琶湖疎水の実現に大きく関わったはずだと言うのが私の持論である。
ただし宮脇剛三と言う人を見ると、実業家と言う側面よりは陶芸の研究者としての側面の方が強力であったようである。
剛三は“永楽保全と湖南焼 ”と言う陶芸に関する研究書を残し、また京都美術大観、陶器講座などにもその著述が残っている。
また剛三は自らが経営に関わっていた“近江新報社”を通して、明治25年に故井伊直弼朝臣祭典事務所が発行した書籍である”金城柳影”“深みとり”の出版を担当している。
このことだけを持って伊井家と剛三の関わりを云々することは無謀であるが、私の印象としては剛三が伊井家から宮脇の養子に入ったと言う言い伝えはあながちデタラメとも思えない。
うがった見方をすれば宮脇剛三は伊井直弼若しくはその近親者の隠し子ではなかったか、と言う私の仮説もあながち否定できるものでもないと思われる。
剛三を養子に迎えた宮脇家では、彦次郎の宮脇家を本家とし剛三の宮脇家を伏見の分家としている。
剛三がどのような最期を遂げたのかは今の段階でまだ詳しくわかってはいないが、剛三の名前は湖南焼きの研究者としてその著述ともに今もなお残っている。
私が思うところあって母方の祖先の事を調査するようになって、かれこれ10年の月日が流れようとしている。
もともと学生の頃は歴史にはあまり興味が無かったので、自分の祖先が島津斉彬だの宮脇睡仙だのと言われてもピンとこなかったし、読書は好きでも歴史物は殆ど読んだ記憶がない。
学生の頃に母から、「親族の中の祖先の事を聞き伝えている人たちが、生きている間に聞き取りを調査をして整理しておけ」と何度か言われた記憶はあるが、親族は殆どが東京か九州なので「調査せよ」と言うならせめて交通費ぐらい出してくれればと思った。
それでも島津斉彬の男の子(不二木佐七)については、その人の孫達(私の母の従兄達)がつい最近まで生きていたので、調査を始めた10年ほど前にはかろうじて話を聞く事が出来た。
調べれば調べるほど表の歴史には出てこない部分が沢山出てくる。
表の歴史では島津斉彬には生き延びた男の子はいない事になっているし、まして祇園の芸妓?生ませた子供がいたなんて全く記録には出てこない。
だから言い伝えられた話を聞きだし、当時の時代背景を調べて一つづつ当てはめていくしかないのである。
その点残った資料だけで歴史を紡いでいく方が楽なような気がする。
もちろん作業としては大変だとは思うが、資料が無いからと簡単に否定できるからである。
実際世の中、どれだけの事実が記録されているのだろうか?
たとえそれが雄藩の大名であっても、いやそうであるほど実は伏せられている事は多いのでは無かろうか?
私の祖先の調査の最大の目的は、実は琵琶湖疏水にある。
つまり、琵琶湖疏水が完成できたその歴史の裏には、それこそ水面下で琵琶湖側勢力の反対を抑え、疏水を完成に導いた影の力の存在があり。
それが薩摩を背景にした斉彬の隠し子〝不二木佐七〟と宮脇一族(彦次郎の嫁は佐七の長女)とのつながり、そして井伊家から宮脇に養子に来たと伝えられている宮脇剛三(彦次郎の妹の養子)。
廃藩置県の後だからこそ出来たこのネットワークが、琵琶湖疏水の完成を陰で支えたのだと私は確信している。
考えてみれば、残された資料が必ずしも真実を語っているとは限らない。
残った史資料の中にも真実もあれば虚報もあり、言い伝えられてきた言葉の中にも真実もあれば虚報もある。
またその時の為政者の都合で隠されてしまう真実もある。
大東亜戦争についてでさえそうなのだから、時代を遡れば遡るほど失われるものが多くなって行く。
ただ例え聞き伝えであっても、それを聞いた人たちがどんどん亡くなっていく事で、多くの真実が後世に伝わらなくなっていく事があまりにも惜しい気がするのは私だけだろうか。